私は中高のうち約4年を、海外の小さなインターナショナルスクールで過ごしました。
幼稚園から高校生までの一貫校でしたが一学年10〜30人くらいしかいなくて、丘の上にある元々貴族の所有物だったという古い建物にプレハブや教室を継ぎ足した建物の中で学んでいました。
10年以上も前の話ですから、当時はアジア人への差別や偏見も根強くあったし、それに加えてどこの学校にもあるスクールカーストもあり、学年に2〜5人しかいない日本人はそれなりに楽しくやりつつも、それなりに辛い思いをそれぞれしていたと思います。
私が入学した時は同じ学年には日本とスペインのハーフの子が一人いたくらいで、あとは全員現地人か英語圏かその他インターナショナルな面々でした。英語もろくにわからず苦労しました。
入学後1年後かそれくらいに、現地の日本人学校に通っていた女の子が転入してきました。元々アメリカにもいたとのことで、英語は普通レベルには使いこなせてて、やっと助けてくれそうな人が来た!そしてやっと学内で日本語を話せる!やった!くらいに思ってたと思います。
その頃は一つ上の学年には2〜5人の日本人がいて、その上もいたので随分可愛がって貰いましたが、1年も経つと皆んな他の国に行ったり、日本に帰国してしまい、気がついたら同学年のその子と後輩くらいしか居ませんでした。
毎日同じ教室で授業を受け、母親が作ってくれた弁当を食べ、帰り道はどうでもいいこと喋りながらダラダラと歩き、長い夏休みには一緒に遊んだり、おそらく私達二人しか見てなかった景色が沢山ありました。
決してキラキラはしていない、ドライで鬱屈した時間だったけど、それでも自分の人格形成とか価値観を作り上げる大事な時間、経験でした。
そんな時を一緒に過ごした彼女が亡くなったというのを、つい先ほど知りました。
たしかに私が帰国してからは、SNSで近況を知ったり、本当たまにメールするくらいで、どこどこの大学に受かったんだ、やっと帰国できるんだって話を聞いて、良かったね日本で会えるね〜くらいにしか思ってなくて。
大学時代のいつかから、ある日彼女がfacebookを辞めたことに気付いて、SNS疲れかな?とか思いながらも、連絡するでもなく、まあでも便りがないのはいい知らせだろうと思って、あまり気にせず、連絡を取ることもなくなってしまいました。
海外で同じだった先輩達との集まりとか、ハーフの子がたまに日本に来る時とか、話題には必ず上ってはいました。元気にしてるのかな?連絡ないよね。まあ元気にしてるでしょ。
そんな風に思っていました。
まさかもう本当に二度と会えないなんて思いもよらなかった。
何とかして連絡取る方法だってあったのに。
何も言えずに逝ってしまった。
同級生の死というものを経験したことがなかったし、しかもそれが、中高の景色を同じ目線で見ていた唯一の存在というのが、本当受け入れがたい。信じられない。
どこに何を書いても、誰に何を言ってもこの感情の納めどころがわからない。
一番辛いのはご家族なんだろうな。
あんなに愛されていたのに。
聞いてから3時間くらいずっと泣いているけど、本当どうしようもないのに、ずっと会ってもなかったのに、会いたいと思う。
何であの学校宿題あんなに多かったんだろうね。
教科書クソ重たかったよね。
ミスターリコスのモノマネまだ出来るよ。
ジャパンエキスポみたいなやつ行ってコスプレの人達とめちゃくちゃ写真撮ったの楽しかったね。
教室移動で5分しかないのになかな開かないロッカー腹立つよね。
サリア通りの買い食い何が一番好きだった。
Eちゃん家で極寒の中プール入ったり、ヘドバンしたり楽しかったね。
それぞれ別ジャンルオタクだったけどまあまあな黒歴史築いてきてたよね。
Field tripめんどくさくて辞退したけど、後から写真見て行けば良かったなって後悔したんだよ。
修学旅行で夜のエッフェル塔爆走して階段登ったの意味わからんよね。
そんな話を日本語でできる人は、もうこの世に一人もいない。
寂しいよ。
それぞれ日本で生きてりゃ、どこかで会えると思ってた。
会って話したかったよ。当時の色んなこと。
寂しいよ。