推定寿命97歳の長すぎる余生

そんな生きる必要ある?

COVID-19-38

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2044年7月21日午前10時。部屋のものを可能な限り処分し終えた広い空間で、最近流通し始めた真新しい防護スーツを身に纏い、迎えが来るのを待つだけの無為な時間を過ごしている。ただでさえも息苦しいのに、顔まで覆う防護スーツが空気を遮断して体温の上昇を加速させる気がする。他者の感染を予防するこれは、噂の通り着ると二度と自分では脱げないようだ。何のどこを引っ張っても無駄ということがわかり、辛うじて残しておいたベッドに横たわる。こんな苦しいのであれば、迎えが来るまで着るんじゃなかった。横になったところで、助かる見込みのないという私の肺は殆ど空気を受け入れず、代わりに激しい咳とともに血が混ざった淡が排出され、防護服の内側を汚した。と、同時に激しい痛みが咽頭から全身に伝播し、反射的に奥歯を噛みしめる。私が侵されているCOVID-19-38という感染症は、2019年に中国から世界中に感染が広がったCOVID-19、当時日本では「コロナ」とか「新型肺炎」「新型コロナウイルス」などと呼ばれていたウイルスの38番目に確認された変異体だ。歴代の変異体より感染力が圧倒的に強く、現在各地で久しぶりの大流行を見せている。COVID-19の世界的流行が始まった当時まだ大学生だった私は、20年という時が経ち、この世界の「ちょっとましな方」に暮らす死にかけおばさんになった。目を閉じてプレコビッド時代(Pre-COVID)、つまりコロナウイルスが出現する前の時代の暮らしに思いを馳せる。最初は誰もが対岸の火事、日常を取り戻すための一時的な自粛期間、苦しいのは皆一緒、今だけと思っていたのに、あの時から何もかもが変わってしまった。変化は徐々にではあったけど、生活様式も、国の在り方や価値観、世界の様相も全て。その一方で数少ない、変わらなかったことと言えば、これだけ様々な技術が進歩した今でも、このウイルスを完全制圧することは人類には叶わなかったことと、このことを大学生の私に伝えられるタイムトラベルのような便利な装置は未だに存在しないということくらいだ。

今私が住んでいる世界の「ちょっとましな方」というところはSafe District=安全区、通称ディストリクトと呼ばれる場所で、各国の首都や大都市などに点在する特別地域。ここは国家と人類の存続に最低限必要な機能が備わっていて、一部のごく限られた人間や動物のみが出入りと居住を許可されている。最初のCOVID-19の流行が多くの国で収束してから1年も満たない間に発生したCOVID-19-2やCOVID-19-3と呼ばれる変異体の爆発的な感染流行が拡大し、世界中が瞬く間にパニックに飲まれる中、感染拡大が起こる度に対処療法としてロックダウンを繰り返すだけでは、根本的にこの感染症から逃れられないのでは、人類はウイルスに根絶やしにされるのではという不安だけが世界中を覆った。そのような中で、国家の存続のためだけに提唱された、人工知能AIによる完全管理地区が一部の先進国で作られ始めたのが、今で言うディストリクトの始まりだった。ちなみに、これらの変異体にはCOVID-19のために某国の研究者が作ったワクチンや抗ウイルス薬が全く効かず、さらに致死率も高くなり、しかも前回の流行を上回るスピードで拡散した。故に様々な反省を生かして再構築されていたはずの医療体制も各国で大崩壊し、そこからたった数年で人類史上例を見ない速度で多くの人命が失われた。ついでに言っておくと最初の二つの変異体の爆発的流行には、当初より延期され、翌年に強硬開催された東京オリンピックが多大なる貢献をしてしまったことは、日本とオリンピック委員会の大きな罪として未だに何かと問題が起こるたびに槍玉に挙げられている。しかも、結局今のところそれが開催されたオリンピックとしては最後の大会となった。COVID-19ウイルスの感染力とその拡大の速度に伴い、その変異発生率も過去に例を見ない程高く、さらに一度感染して抗体があるはずの人がこの変異体ウイルスに感染すると重篤化率が数倍に跳ね上がるなど、それまでに人類が体験したことのない不可解な事象に感染症の研究者や医療現場、当時まだ発展途上だったAIでさえも常に対応にあぐねていた。特にウイルスの変異体間で予防薬やワクチンが有効にならないということが、新たな変異体が確認される度に終わりの見えない闘いを強いられるようで、我々の絶望感を加速させた。結局この20年で40種近いウイルス変異体が確認され、当時の世界人口の3割に及ぶ約20億人近くがCOVID-19およびその関連で亡くなったと言われている。今はパニックを防ぐという名目の下、死者数や人口の正確な数字は公表されず、パーセンテージでしか情報としては知らされていないが、私が知る限りでは人口の3割というのはかなり的確なものだと思う。国内でも消滅都市が複数生まれてしまったし、世界に目を向ければ消滅国家まで発生した。特にひどかったのが、主にアフリカなどの発展途上国などと当時呼ばれていた国々で、元々あった民族対立に加えて力を持ち過ぎた軍隊、ギャングなどが医療リソースを巡って内紛を起こし、難民の受け入れや物資を巡った国家間の戦争も各地で勃発した。病院や医療従事者を巡っての戦いは、結果それらをさらに追い込む惨状を招いた。元々衛生管理もままならない、医療インフラすら整っていないような環境で、戦争から逃れるために疎開した先でも、最前線の戦士の間でも感染爆発が起きるなどして環境悪化に拍車をかけ、先進国からボランティアなどで派遣されていた医療スタッフもその多くが犠牲となった。戦争から命からがら逃れた多くの人達が大陸や海を渡り、助けを求めて他国へ亡命を図ろうとしたが、自国でも感染抑制がうまくいっていない状態で、別の変異体ウイルスとともにやってきた難民を受け入れる余裕のある国などほとんどなかった。地中海を難民ボートで渡って押し寄せた大量の難民は受け入れを拒否され、船のそこら中でクラスターが発生し、治療も受けられず、最期はその死体さえどこにも拒否され、打ち上げられたボートごと大量に海に遺棄されるという非人道的な行いも見受けられていた。地中海が「第二の死海」と呼ばれ、無数の死体が浮かぶショッキングな映像とともにマスメディアを賑わせていたことも鮮烈に記憶に残っている。

 このような状況が数年続き、先進国の管理地区は感染爆発が落ち着いた後もロックダウンを強化させ、完全クリーンなエリアを形成するために様々な策を講じ始めた。各ディストリクトによって程度の差こそあれ、既に許可制となっていた外出やエリアへの入出、義務化されていた体調管理とその報告がAIによって統制されるようになり、人との接触は極限までに減らされた。医療リソースも一括で管理され、確かにディストリクト内だけでは感染の抑制がある程度は可能になった。丁度その頃から、「ポスコビ・ポスコロ(Post-COVID)」と呼ばれるコロナウイルス発現以降に成人になったこの世代が発言力を高め、リーダーシップを発揮しながらディストリクトの統制強化を加速させていた。この世代はコロナウイルスの感染が始まった頃に環境も整わないまま在宅学習を余儀なくされていたため、自力で教育リソースにありつくことができた者とそうでない者の格差が非常に大きかったが、力を持っていたのは言わずもがなその前者のみであった。ウイルスは変異する度にその症状や性質の変化が認められていたが、若年層の重篤化率・致死率に関してだけは一貫して上がらなかったことに加え、国に用意された一律教育を脱したことによりイデオロギー洗脳を受けていない、尚且つ様々なテクノロジーを取り入れる柔軟性を持ち合わせた彼らが世界を席巻していったことは言うまでもない。ポスコビ世代がAIとタッグを組んでからというものの、徹底した感染予防のためという名目の下ディストリクト内は日に日に変容していった。当時既にほとんど機能していなかった民主主義は完全に形骸化し、今の中央政府が情報を遮断するようになり、この辺りからは外の世界のこと、諸外国のことを知ることは一層難しくなった。ディストリクト内では、まず一番大きな変化として基本的に人は外出しなくとも各自が自宅の部屋の中で生活が完結する環境が整えられていった。たとえば、私が昔大学生の頃、海外の一部の地域でようやく始まっていた自動操縦ドローンを使った配達はここでも当たり前の光景になり、ドラマで見たような人が集まるオフィスやオフィスビルというものは姿を消し、ついでにAI搭載のロボット等が成り代わることで数多の仕事や職業も消滅したが、今は逆にAIが新たな雇用を生み、多くの人間にとって自宅で仕事することが当たり前となった。ついでに言うと、公共の監視用のドローンや、一人一台所持が義務化されている消毒自動散布用の小型ドローン、ペット型のものなど、様々なタイプのドローンが我々の生活を支えている。ディストリクト内で他の人と接触できるのは、ほぼ毎日行う簡易検査で互いに感染陰性が2週間認められた時だけという規則があって色々と面倒くさいのだが、昔で言うVRなどの技術の向上で、そこまでリアルが求められることもないし、最初の数年のうちにこの生活にも違和感も覚えることはなくなった。ディストリクト内にアーティストと呼ばれる人はいないが、AIが無限に作り出すコンテンツなどで退屈することはないし、昔公共や民営で存在していた運動用フィットネスジムも、一家に一部屋が標準となった。私自身はこれまで特殊な仕事をしていたから時折外出もあったけど、このような環境下では多くの人にとって自宅を出ることは、昔大学生だった自分が「遠くへ旅行に行く」とか「海外に行く」くらいの感覚になっていると思う。それに伴い電車などの公共交通機関と呼ばれたものは全て姿を消し、AIによる自動運転システムが搭載された無人のUTAXIが主な移動手段となった。大昔に建設が開始され、本当であれば来年全線開通予定だった夢の高速鉄道と呼ばれていたものも、いつの間にか人々の記憶から忘れ去られていた。

 たまたま20年前、私は今のこのディストリクがある地域に家族と住んでいただけで、この中に留まれているだけであって、もしこの「外」に住んでいたら入出すら叶わなかったと思う。今新たにこの中での居住が許されるのは、中央政府の人とその関係者、金持ちや何かの機関で選ばれたIQの高い人や特定分野のスペシャリストなど、国家の存続に必要な人材くらいだと言われている。そして、これまでの話は全てディストリクト内のことであり、「内」があるということはもちろんその「外」側の世界がある。このディストリクトは、十年前の都道府県の解体でおそらく厳密には違うものの、昔東京都のあった場所に都よりも狭い範囲で存在し、それ以外はabandoned zone(忘れられた地域)、通称ゾーンと呼ばれている。ちなみに、今も関西にも一か所だけディストリクトがあり、以前はもう一か所だけその中間地点にも存在していたが、7年前の大地震津波で壊滅してしまった。私も近寄ったことはないが、今はゾーンと化しているらしい。その大地震を含め、思い起こせばこの20年ウイルスとの闘い以外にも色々あったはずだが、あまりにも起こりすぎて記憶から零れ落ちてしまっているし、そもそも、前述の通り我々に提供される情報というのもいちいちAIや中央政府が噛んでいるので、どこまでが現実なのか、何をもって正解なのかは正直わからない。この20年で多くの人は自分の頭で思考することをやめてしまったし、他者や周囲への関心や興味を失ってしまったように思う。絆とか繋がりというような昔よく使われた単語は、今は古語辞典にしか載っていない。そして、プレコビッド時代には既にAIは独自の言語を作り出すほどには人間の知能を遙かに超えていたらしいから、それが本当なら、ここまで人類が減ったのももはやAIの計画だったのではとも思える。だが、私のように考える人はディストリクト内外でも数えるくらいの人しかいないだろう。現在はディストリクト内の人、ゾーンの中に住む人、お互いそれぞれの状況を知らない人が大多数だし、もちろん知ろうと思う人もほとんどいない。特にポスコビの若い世代は別の世界の存在すらよくわかっていないというのも不思議ではない。ただ私がとある調査研究機関で働く、ディストリクトとゾーンの行き来が許された数少ない人間で、一般の人よりは加工される前の情報に触れる機会が少なからずあり、この分裂された両方の世界を知った結果、そのような思考に至っただけで、確実な論拠があるわけではない。何が本当で、当たり前で、正常なのか、20年という年月は全ての感覚を麻痺させるは十分な時間だった。

 ゾーンへのフィールドワーク調査という名目の元、行き来が可能になったのはここ4,5年のことではあるが、約15年ぶりにディストリクトを出た衝撃は今でも忘れられない。ゾーンの中にはポッドと呼ばれる人々が集まって暮らす集落のようなものが無数に存在し、そこにはプレコビッド時代の生活がほとんどそのまま残っていた。もちろん、ゾーン区域についてもディストリクト形成前からAIが一定の監視と調査を常に行っていて、ある程度知識としては知っていたものの、実際に目にすると、それこそタイムトラベルでもしたような気持ちだった。UTAXIの車窓からは人々が当たり前に部屋の外に出て人と話したり、食事をしたり、運動やレジャーらしきものを楽しんでいたりする光景が見えるのだ。学校のような機関が存在していたり、硬貨や紙幣という現金がまだ存在して普通に流通していたり。未だに多種多様な犯罪が起こったり(ディストリクト内でも犯罪が全く無いわけではないが)、オフィスビルが存在していたり。音楽や芸術を人間が作り出し、それを愛でる人間もいる。ディストリクト内ではごく一部の物好きだけが続けている恋愛や結婚、感染リスクの高い生殖行為というものも、ここでは当たり前にしているというから驚きだ。ちなみに、ディストリクト内では女性は体外受精と出産の要請に応じると報酬が貰える。ゾーンでは子供を産み育てるプレコビッド時代の習慣も残っていていることを知った時、6年前に報酬目当てで要請に応じて妊娠し、ある日私の胎内から引きずり出されて行った顔も知らない我が子のことを思い出した。一年無職で暮らしていけるくらいの報酬と中身が無くなって伸びたお腹の皮膚と傷だけが残され、その子がどこでどうしているのか、そもそも生きているのかどうかも最後まで知ることができなかった。

 一部のポッドには、バスなんていう懐かしい乗り物や、とっくの大昔にディストリクト内では使われなくなった布マスクを着用して歩く人々が、生き生きと堂々と、家族や友人、恋人と道を歩いているのだ。その景色を見た瞬間に、私はこの十数年でディストリクト内での生活が如何に変わってしまったか、どれだけ無機質で味気のないものに変わってしまったかを思い知らされた気がした。変化は徐々にではあったから自身では気付いていなかったが、私達が生きていた世界から、ずいぶん遠くまできてしまったようだった。ゾーンにいる彼らの日常はポストコビッド時代になっても続いていた。普通に出歩いてウイルスが恐ろしくはないのかという気持ちと、少しばかりの彼らへの羨望と、戸惑いや困惑でその最初のフィールドワークはその目的を果たせず、まともな報告書も書けずに後に雇い主であるAIから叱責を受けた。なお、私のような調査員はAIの補佐として様々な情報を収集・整理することで報酬を得ている。ゾーン区域に派遣される危険な仕事として敬遠されがちだが、おかげで私はこのような貴重な情報を多く得ることができた。

知っていたことではあったが、多くの人がプレコビッド暮らしをしているゾーンではディストリクト内に比べ、ウイルスの発生頻度ももちろん高いし、一度クラスターが発生すれば、拡大もかなり一気に進む。何なら日常的にウイルス感染が起きている。日々の検査や外出の許可は不要だし、マスクと簡易消毒だけで予防するだけで、人と人が接触するのが当たり前の世界では当然のことだ。ディストリクト内ではシールドか防護スーツを着用せず外出すること罰せられるし、毎日の検査で一度陽性が確認されれば、その時点でまず部屋から自力では出られないし、他人と同居している場合は、隔離所へ即時輸送される。ドクターのリモート問診や簡易化されたセルフ精密検査キットの結果から、状態に応じて必要な医薬品や物資などが自動で届く。陰性が確認された後クアランティンと呼ばれる指定の完全隔離期間を経て、仕事などの日常生活に戻る。もし、重篤化の可能性がある場合には政府がドローンで支給してくれる防護服を着用し、誰とも接触しないままUTAXIで医療機関に運ばれて行って治療を受ける。これによって感染が広がることも、医療崩壊が起こることも格段に減った。一方、ゾーン内では感染したかどうかのセルフ検査すら浸透しておらず、未だに検査機関に行かないといけないが故に、その間にも感染が広まっていることがほとんどだ。ただし、医療現場ではロボティクスや最新の医療機器などの導入などによりディストリクト内とほぼ同様に非接触が徹底されている。また、医療機関パンクしないよう地域を超えた情報や医療リソースの共有だけはAIが手助けしているようだが、7年前の大地震の直後に変異体3種がほぼ同時期に国内のゾーン内で感染爆発を見せた時などは、AIの予想を超えるスピードでウイルスが拡散し、さすがに死者数がぐんと伸びてしまった。AIのウイルス感染拡大予報というのも、プレコビ時代の天気予報なようなもので、年々精度は上がってはいるものの、100%には未だほど遠いのが現実だ。こういった感染爆発が発生する度に問題となるのが、陽性となった人や重篤者が必ずしも全員医療サービスを受けられるわけではないということである。プレコビッドの時代には、保険にさえ加入していれば、むしろ日本に住む人であれば医療サービスは平等に受けられるものだった。それが今や、感染者数が一定数まで増えると確実にそうではなくなることが判っている。以前仕事中に入手した機密資料によると、某国では国民の年齢や推定寿命、各種能力、社会貢献度などから一人ひとりをスコア化し、それに応じて医療サービスを受ける優先順位が付けられていたということもあるようだった。それの真意は不明だが、少なくともこの国でも犯罪者や犯罪歴のある人が医療リソースにリーチできずに重篤化して亡くなるケースが数多くあることから、似たようなことをAIが行っていると推測される。兎に角医療リソースを増やせばいいじゃないかと言う人もいるが、ポスコビ時代において各国の様々な資源を巡る問題は非常に深刻で、ディストリクトのような保護管理区域が拡大できず、このような完全分裂社会として国が存在し続けることも、その部分が非常に大きいと言われている。

 終わりの見えないウイルスとの闘いにおいて、少しでも助かる命を増やすため、この国で苦肉の策として2年前に誕生したのが、治療を受けない権利を自ら選択できる制度だ。臓器提供の意思表示のような形で、重篤化した際に治療を受けるか受けないかを予め自分で決めておくことができるのだ。これは住む場所に関係なく、国民全員に突き付けられた命の選択だった。国としては、相変わらず一定数存在する自殺者の活用や、ボランティア精神に溢れる利他的な人々を最大限活用して、生きる意思がある人、生きるべき人を優先して治療に回すつもりなのだと思う。倫理観や道徳という言葉が消えて久しい世界では誰も何も声を上げないが、私や周りの調査員の一部は恐ろしいことだと口々に言っていた。

 ディストリクト内に住んでいて、治療を受けない権利を選ぶ人などいるのだろうかとも思うだろうが、私はそちらを選択している。今着ているこの二度と脱げない防護服も、これから私を迎えに来るUTAXIも、私のような人間を終末収容施設に連れていくために政府が用意したものだ。先月から既にCOVID-19-38の感染が拡大していたゾーンに調査で行った時だろうか、運悪くウイルスを貰ってしまったらしい。あと5分で迎えが来たら、この部屋に戻ることは二度とない。20年前には両親と姉と住んでいたこの部屋。最初に致死率90%のCOVID-19-4で姉が亡くなり、そして父親だけが老衰で、その翌年に母がCOVID-19-30で帰らぬ人となった。ポストコビッド以降、少なくともディストリクト内においては、結婚というシステムは形骸化し、「家族」という概念も、言語化するのは難しいが、少なくとも以前のものとは違うものになってしまった気がする。腐ってもプレコビッド世代の私はそれに完全には順応できなかった。一人で暮らすことが当たり前のディストリクト内において、ずっと家族と同居していたし、肉親が亡くなった時の、心と身体が引き裂かれるような思いは、何をしても、どの治療を受けても癒えなかった。医療機関に輸送されたはずの患者が生きて戻ってこられないことはよくあると皆言うが、誰か他の人のために、姉や母が犠牲になったかもしれないということを思うと耐えられなかった。ポスコビ世代の人に言ってもポカンとされるだけだが、耐えられないのだ。

 終末収容所は、ゾーンのどこかに建てられた完全無人の施設で、希望した感染者が次々と運び込まれ、施設内で死んだことを機械が感知すれば、隣接の火葬場で集団火葬されると聞いている。脳内のインプラントマイクロチップと連動したデバイスを使って、迎え待ちの30分でこの文章をしたためていたが、どうやら収容施設に着く前にチップも無効化されるようなので、おそらくこの先のことを書き起こすことはできない。この部屋から出たら、残されたものは全て滅菌後処分され、部屋も丸ごと消毒される。暫くしたらディストリクトに入居許可された新しい人物か、生まれてすぐにどこかへ連れていかれた我が子のような人間が住むことになるだろう。その人物だけに向けてこの文章を遺せるように特殊な仕掛けを部屋に残しておいたが、人類を遙かに上回る知能が管理する場所でそれが残るとも思えない。もし残っていたとしたら、このテキストはAIの検閲を受けた上で放置された、熱に浮かされて死にかけおばさんのどうでもいい戯言か、もしくは、奇跡的に検閲を避けて託すことができた、一調査員の知っている限りの史実と見解、そして、この世界をどうにかして変えて欲しいという遺言である。

※この物語はフィクション(ファンタジー)です。実在の人物や団体、2020年現在流行している新型コロナウイルスとは一切関係ありません。